はまなす季刊51号
  はまなす寄稿
  東京だより(27)
 ウィーンとモスクワを訪ねて
       “作曲家・モーツァルトと
                   詩人・マヤコフスキー”
      東京大学耳鼻咽喉科教授 加 我 君 孝
1 ウィーン
仕事上、国際学会がある時にだけ海外へ出かける。今年は音楽の都ウィーンとロシアの首都モスクワに出かける機会があった。
6月14日から17日まで世界人工内耳会議がウィーンであり出席した。会長のバウムガルトナー・ウィーン大学耳鼻咽喉科教授は、私が日本耳科学会総会の会長を担当した時に特別講演に招いたことがあり、かつ国際共同研究をした間柄である。
今年はモーツァルト(1756―1791)生誕250周年である。モーツァルトが生まれ活躍したオーストリアのザルツブルグやウィーンは北海道とそっくりな気候である。
 
オーストリアの人口は約809万人(日本の約16分の1)、面積は83858平方キロメール(日本の約5分の1)と国も小さく、その点でも北海道そっくりである。ザルツブルグが旭川、ウィーンは札幌に例えることができる。冬季スポーツのジャンプや回転では北海道出身の選手にオーストリアの選手はいつも立ちはだかっていることは北海道人は誰も忘れない。モーツァルトと北海道は直接関係はないが、冬季スポーツは関係が深い。
モーツァルト生誕250周年を記念して、ウィーンの路面電車には難しい顔をしたモーツァルトの顔が描かれている。モーツァルトが大人になった顔で難しい形相である。同じ顔のポスターがウィーンのあちこちに掲示されている。新しく出来た宮殿近くの庭園のモーツァルト像とモーツァルト博物館に行ってみた。(図1・2)ここはモーツァルトの結婚式のあったステファン寺院の側にある。デジタル化された展示と説明と音楽をヘッドフォンで聴くことが出来る。“アマデウス”という映画が一昔前にあり、この映画ではモーツァルトが音楽の才能は天才的であるが、軽薄な人間として描かれているのでそれまで抱いていたモーツァルト像が打ち壊された人が少なくない。今年はモーツァルトの奥さん・コンスタンツェの87歳(1840)の写真が新聞に掲載され話題をよんだ。彼女はモーツァルトの死後、デンマーク大使となった男と再婚したのだという。この頃写真技術はあったのであろうか。
「モーツァルトはお好き?」と聞かれると、皆さんはどのように答えるであろうか。キラキラ星変奏曲やアイネ・クライネ・ナハトムジーク、子守歌のような小品からクラリネット協奏曲やピアノ協奏曲など軽やかで美しい曲は限りなく美しく、アインシュタインをして「死ぬということはモーツァルトが聴けなくなることである」とまで言わしめたほどである。
モーツァルト八歳の時のピアノ曲を集めた「ロンドンスケッチブック」というCDを聴いた。すでにモーツァルトそのもので、才能が発揮されている。私は美しい曲だけでなく、レクイエムを知人を亡くした時にはそのたびに聴きたくなる。35歳で亡くなる直前に完成されたもので深い悲しみの曲である。まだ若いのにモーツァルトはなぜこのように悲しみで胸がはりさけそうな人生の深淵を表現できたのであろうか。
今回の人工内耳学会では、私が音楽愛好者であることを知っている会長のバウムガルトナー教授が、わざわざ“Sound of Music”という名のついたセッションを作り、私を座長にあててくれた。もちろん同名のミュージカルからとったものである。会場は昔マリア・テレジアの住んでいた宮殿で行われた。(図3・4)シャンデリアのある大きな部屋である。もしわが国に例えると皇居や赤坂迎賓館で学会をするようなものである。国をあげて力を入れている。
2  モスクワ
世界の耳鼻科の教授のメンバー制の会が毎年あり、今年は一度行ってみたいと思っていたモスクワであったので出かけた。
 
私はこれまで聴覚の研究発表をし、たくさんの論文を書いてきたが、今回は初めて自分を鼓舞する目的で私の「患者と学生が対話が出来るようにしたベッドサイド教育」の発表をすることにした。しかしモスクワへ行くことは安全であろうか?選択するにも飛行機はロシアのエアロフロートしかないことがわかった。今年2月発行のニューズウィーク誌特集「世界の飛行機安全度ランキング」をみると、284社中179番目であった。エアロ・コロンビアとエジプト航空の間に挟まっている。

ビジネスクラスを選んだ。値段は36万円と格安でヨーロッパの正規のエコノミークラスに近い値段である。ますます心配になった。昔ロシアがソビエト連邦であった頃、新潟からハバロフスクまで観光目的で飛行機で行ったことがあるので2回目のエアロフロートである。ソビエト時代は格安のためにヨーロッパへ行くのに学生がよく利用したもので、これまでの評判は悪い。成田空港で飛行機に乗った。機材は米国製のボーイング七六七ジャンボであることに気がつき、ソ連製のイリューシンでなく安心した。モスクワに向かって飛び立つと食事が提供された。ビジネスクラスらしいメニューで、アルコールも充実していた。ただしスチュワーデスの愛想は乏しい。
モスクワの「プレジデント」という学会場のあるホテルに滞在した。出入が厳重にチェックされている。テレビの番組はロシア語の沢山のチャンネルがあった。イスラム系のチャンネルが二つあり、レバノンへのイスラエル侵攻を非難する番組があった。初め幸福そうな結婚式のシーンから始まり、次にビルが破壊され、子供が爆撃で亡くなるシーンが流れ、最後にイスラエルのダビデの星にナチスのカギ十字が重なって終わる。その番組を除けばNHK教育テレビ番組のようである。
 

モスクワは日ソ貿易の社員でソビエトの頃から現在に至るまで長い間モスクワに住む磯和氏が私を案内してくれたため実に有意義な旅となった。
(図5)美術館や教会よりもマヤコフスキー博物館に連れて行ってもらった。(図6)マヤコフスキー(1893〜1930)はロシアが誇るアバンギャルド(前衛)詩人である。(図7)学生の時、ロシア文学の作品をよく読んだ。医師であるチェーホフの「可愛い女」や「犬を連れた奥さん」などの短編や「三人姉妹」や「かもめ」などの戯曲は特に気に入った。
しかし当時の若き日の私の心に火をつけるほどの刺激をしたのはマヤコフスキーの詩集であった。詩のタイトルからしてアバンギャルドである。例えば「ズボンをはく雲」では脊椎のフルートを吹くという具合である。何という想像力であろうか。
マヤコフスキーは1893年南方ロシアのグルジアに生まれ、1906年13歳の時にモスクワへ移住、十代の半ばからロシア革命に向かう革命運動に参加した。三度逮捕。その後ロシア未来派の詩人としてロシアの伝統や神秘主義を否定し自由な新しい芸術の創造を唱えた。
 
この情熱の詩人は各地で何人もの女性と恋に落ちては破れた。世界各地を旅行したがニューヨークに行った時は通訳と恋に落ち、その時に生れた女の子はそのまま米国で育ちニューヨーク大学の教授になり、現在80歳を越えるという。日本に憧れたが、しかし来る機会がなかった。ロシア革命(1917)の後の1930年モスクワの仕事部屋でピストル自殺をした。(図8)36歳であった。

今から四年前に完成したというマヤコスフスキー・ミュージアムは本人が住んでいた六階建てのアパートを中心に建てられたものである。玄関から六階までラセン状のフロアからなるこのミュージアムはすべてがアバンギャルド風である。まず玄関が斜めである。入るとミュージアムショップがある。さらに地下に降りると斜めに脚を切ったイスが13並んでいる。キリストの12人の使徒の次の椅子が自分であるという意味である。生地、学校、愛してふられた女性、レーニン、スターリン、盛大な本人の葬式の写真などが垂直なものは斜めに、斜めのものは垂直にデザインされ、めまいがするような空間である。
最上階に本人が自殺した部屋が当時のままで残されていた。旅行鞄がベッドの側にあるのが印象深かった。 その帰りに大きな本屋に行った。児童図書コーナーのロシアの文豪、トルストイ、プーシキン、マヤコフスキーが子供のために書いた絵本があった。日本では夏目漱石や森鴎外が絵本作りに参加することはなかった。ロシア人は日本人と同様に子供想いであるとのことである。トルストイの作品は日本では民話と訳されている。私はかねてより捜していたマヤコフスキーの童話“燈台”を発見して嬉しかった。ロシア語はわからないので帰ってきてからブルガリアから私の所に留学しているアセーノフ先生に訳してもらった。内容は教育的なものでニューヨークで生れた娘のために書いたものである。
チェーホフの住んでいた家にも行ってみた。お客さんは私共以外いなかった。中で写真を撮ろうとしたら、一回五ルーブル、500ルーブルを払えば撮り放題と言われたが、止めて小さな冊子を購入して済ませた。
最後の日の学会ツアーで“新教会”へ行った。典型的ないくつもの同じドームのある巨大なギリシャ正教会の建物であった。スターリンによって破壊され、プールになっていた用地に、ソ連が崩壊してから10年前に再建したものだという。
 
見学中に牧師を先頭に信者が次々と入って来て礼拝が始まった。チェーホフの作品にもこのようなシーンがあったことを思い出した。
今回のモスクワへの旅は、ロシアは今や資本主義の国でキリスト教の国であることがよくわかった。ただし、サービス面はエアロフロートのスチュワーデスに限らずホテルや免税店なども無愛想である。良い印象がない。テレビで観る美しいロシア出身のフィギュアスケーターやバレリーナとはまるで異なる。まだソ連時代を引きずっているかのようである。逆になぜわれわれがこんなに愛想の良い人間社会になったのか考えさせられた。
加我先生は当院の院長と高校時代(美唄東高校)からの友人です。東大教授として多忙を極めている中にあって、はまなす季刊のために連載で寄稿していただいております。
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